遠藤周作さんとエポペは、28年前の創立の際から深い縁で結ばれていたことはご承知の通りです。
実は、戦後間もない頃に渡仏した遠藤周作さんを留学生として迎え入れ、さまざまな形で援助し続けていたのが私どものネラン神父でした。
その後、ネラン神父も日本に宣教師として渡り、遠藤さんとの親交は生涯続きました。
遠藤周作著『おバカさん』(角川文庫)は、そんなネラン神父へのお礼として書いたものだと、遠藤さんご自身が、ネラン著『おバカさんの自叙伝半分』(講談社文庫)の前書きに記しています。
後年、さまざまな遠藤さんのトボケた面が強調される中、遠藤さんを惜しむ取材番組のなかで、ネラン神父が、「彼は本当に真面目な信者、パウロ遠藤周作だった」と静かに述懐していたことがとても印象的です。
この遠藤周作さんの特別企画展が、私どもの現在の株主でもある遠藤順子夫人や、お客さまでもある山根道公先生(遠藤周作文学会)などの協力で、生前住んでおられた東京・町田市の町田市民文学館で以下の通り開催されています。
どうぞ足を運んでいただき、皆さまのご感想をぜひエポペにもお寄せください。
(主催者の案内文より)
町田市民文学館の開館1周年を記念して、遠藤周作展を開催します。
遠藤周作は、カトリック作家として“日本人にとってのキリスト教”というテーマを、生涯を通して問い続けた作家です。
町田市玉川学園には約25年間在住し、この間に『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『死海のほとり』『侍』などの遠藤文学を代表する作品を多く執筆しました。また、狐狸庵山人の名で親しまれ、「狐狸庵もの」「ぐうたらシリーズ」と呼ばれるユーモアあふれるエッセイを手がけたのもこの頃です。
このような町田市との縁から、遠藤周作没後、順子夫人から遠藤周作の蔵書であったフランス語文献を含む遺品等約三千点を市にご寄贈いただき、このことが町田市民文学館設立のきっかけともなりました。
本展では、母の願いにより受けた洗礼体験(洗礼名 Paul)や、その信仰を背負って過ごした青年時代、Paul Endoと呼ばれていたフランス留学体験が、後の「小説家遠藤周作」にどのような痕跡を残したのかを、フランス語文献をはじめとする留学時代の資料や数々の新資料からあらためて見つめなおし、〈母なるもの〉を求め続けた遠藤の文学と人生の軌跡を辿ります。
弊社の株主だった遠藤周作さんの私の思い出といえば、背がひょろっと高くて、上のほうから見つめられているといった感覚が印象的です。私自身もそんなに背が低い方ではないと思っていましたが、それ以上に遠藤さんはかなり背が高い方なのです。
初めてお会いしたのは、20年以上も前、新宿のホテル・センチュリーハイヤットで開催したエポペのチャリティ・クリスマスの会場でした。当日は、テレビ局も取材に来るほどで、三百名を越えるお客様が来てくださいましたが、遠藤さんの周りには特に大勢の人が集まっていたことを覚えています。
主催者としてご挨拶し、「遠藤作品はほとんど読んでいるつもりです」と申し上げたら、ちょっと恥ずかしそうになさりながら微笑まれたことと、エポペのことについてはまだ年端のいかぬ私が実務責任者だと申し上げると、心から気の毒そうに、「毎日、本当に大変でしょう」と言ってくださったことが昨日のことのように思い出されます。
あれから、長い歳月が流れ、エポペも創立27年目になりました。今思うと、エポペに関する辛いことや苦しいことがあっても、遠藤さんと交わすことができた最初のそのときの会話が、いつもどこかで、大きな心の支えのひとつになっていたような気がしています。
「マスターのお奨めの遠藤作品はなんですか。」
こんなふうに尋ねられる時は、まずは読みやすい、『わたしが・棄てた・女』をお奨めしています。正確な事実とは違いますが、実在の人物(井深八重)がおられ、一部は実話に基づいたという内容をぜひ読んでみてください。実は、私がこの小説をはじめてよんだときは満員の電車のなかでした。ところが、そんな中でも溢れてくる涙を堪えることができず、むしょうに泣けてしまう自分が可笑しくもあり、恥ずかしくもあった、後にも先にもはじめての体験をした小説です。
後にこの小説は映画にもミュージカルにもなっていますが、機会がありましたら、音楽座のミュージカルの方をぜひご覧になってみてください。遠藤さんをして、「小説を超えた」と謂わしめたとの逸話が残っています。
もうひとつは、遠藤ファンには意外に思われるかもしれませんが、『王妃マリー・アントワネット』です。
彼女は、18世紀後半のフランス革命前夜、食べ物をよこせと荒れ狂う民衆を前に、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」と言ってのけたことでも有名(実際には彼女の言葉ではないという話も!)ですが、彼女がそう言わざるを得なかった当時の環境やそれまでの境遇を、まさに慈愛あふれる神の目から見たとしたらどう見えるか、を丁寧に描き出しているような作品です。
一見、どんなに罪深いにように見える人でも、神の視点とも言うべき作家の位置から見つめなおすと、哀しい人間の物語が見えてくる、そう語りかけてくるような作品です。
エポペにもたくさんのお客様が来られ、たくさんの方の人生が見え隠れしますが、なかには、どんなに悪酔いしておられていても、どれほど悪態をついていても、その方の深い哀しみが見えてくることがあります。そんなときは、必ずといっていいほど、私はこの小説のことを思い出すのです。
ほかにも、遠藤順子夫人(現在の弊社株主)も奨める『侍』は素晴らしい作品だと思いますが、読者によって、はっきり好き嫌いが分かれるところでしょう。
そして、最後に忘れてはならないのは『おバカさん』でしょうか。若き日の遠藤さんをフランスに受け入れてくれたネラン師に感謝し、彼をモデルにして書かれたというこの小説のガストン青年の姿は、実際のところネラン師とは随分違って見えます。遠藤さん自身が、G・ネラン著『おバカさんの自叙伝半分』(講談社文庫)のまえがき「わが小説のモデルについて」のなかで次のように述べています。
「断っておくが実物のネラン神父は馬面ではない。むしろジョン・ウェイン風の堂々たる偉丈夫である。しかし私のような上手な小説家の手にかかると、美男子のネラン神父も間のぬけた声をだす顔の長いフランス青年に変わるのである。それが日本の読者に受けた。
しかし、このような現実と作品との大きな外面的な差はあっても、根本においてわが『おバカさん』ガストン氏とネラン神父とには共通したものがあり、それを私は小説の中に書きたかったのだ。
それはゆるぎない信仰、その信仰にもとづいた愛である。ガストンは日本人の友のために身を犠牲にし、ネラン神父は日本人の友だちのために生涯を捧げた。
と、書くと彼が近よりがたい高踏の士のように見えるかもしれぬから言っておこう。
この神父は実に人間臭をプンプンとさせた男である。第一に無類の酒好きである。うまいものが好きである。日本全国の温泉をまわった湯好きである。若いころ私たち二人はよく痛飲し、喧嘩した。喧嘩をしながらも私はこの神父の信仰には脱帽せざるをえなかったものだ。なぜなら彼の信仰は生きた信仰だからである。一方では『キリスト論』のような日本神学界に残る名著を書きながら、紅灯の巷のスナック『エポペ』で日本人の客を相手にシェーカーをふっている。
『あなたもいつか、新宿の雑踏のなかにキリストを書かないかねぇ』とむかし酔っぱらった時、ネラン神父は私に呟いた。
きよらかな場所、澄んだ世界ではなく、最も人間的によごれた、人間の臭いのしみこんだ新宿の迷路や
さすがに現在86歳になるネラン神父、いまはシェーカを振っていません。そして、このネラン神父と遠藤さんの関係を語りだすと話が長くなりすぎますから次回に稿を改めましょう。しかし、耳が遠くなったとはいえ、頭はしっかりしていますから、機会があればぜひ会ってみてください。今年のクリスマスも、この「きよらかな場所、澄んだ世界ではなく、最も人間的によごれた、人間の臭いのしみこんだ新宿の迷路や
エポペ・マスター