「なぜ十字架を」

G・ネラン


 奥村一郎師は、『神とあそぶ』という本の中で、おばあさんや四歳の子どもから、「どうして磔なんかになったのか」と問われた体験を述べている。そして師は、彼らに分かってもらえる言葉を見つけることが出来なかったと言う。それでは、働き盛りの者に向かって、十字架の意味を説明出来るだろうか。一つやってみよう。
 時に「贖い」という言葉が用いられる。その概念は、人間社会において通じはするだろうが、根底にある「罪は罪を贖う」という原則は理解が難しいだろう。まして、神と人間の関係における「贖い」となるとますます難しくなる。そもそも、「目には目を」という格言をキリスト教は否定しているではないか。
 十字架の意義を考える際、まず、キリストが十字架につけられたことが史実であることに立脚しなければならない。十字架が予定されていたかどうかという原因、また何かのためにあったかどうかという目的を捜す以前に、歴史の出来事として見なければならない。そして、信仰の立場からするならば、十字架を復活から切り離してはならないのである。新約聖書を一瞥してみよう。パウロは確かに十字架を重視している。しかし、それを罪と結びつけはするが、キリストの死に言及する毎に、すぐ復活をつけ加え、一まとめとしてキリストの業を宣べる。マルコは、十字架をイエスの本質の啓示として見る。すなわち、百人隊長の言ったように、十字架につけられたイエスが神の子なのである。マタイとルカは十字架を迫害された預言者の延長線上に見て、殺害されたイエスが義人であったという点を強調する(マタイ23・24−27、ルカ11・49−51、13・33)。このように、新約における十字架の理解は様々である。
 現代人は、キリストの神性を認めながら、イエスが真の人間であることを強調したがる。それは、五世紀の著名な信仰宣言と合致するし、下からのキリスト論の土台でもある。イエスは真の人間であるから、必ずある時に死ぬ。問題はその死に方である。
 使命を帯びたイエスはその革命的なメッセージを果敢に宣べる。自信満々でユダヤ人のリーダーを蔑ろにする。それ故に彼らの反感を買う。貧しい人々の味方として振舞う。それを金持ちたちは許さない。自分の教えが律法にまさると主張する。それは神権政治に対する反逆になる。イエスの反体制的な態度は、それに対する攻撃を呼び起こすばかりでなく、イエスの抹殺をも求めるようになる。イエスを救い得るものは暴力だけであろう。しかし、イエスは愛を語り、世間的な力を拒絶する。その結末は容易に予想される。
 十字架は、当時の人の目にも現代人の目にも残酷な死刑執行である。しかしこれは、ローマの習わしであり、当時その刑を受けた人は少なからずいた。イエスの傍らでも、二人の無名の死刑因が十字架で死んだ。イエスは、人間の一人として、一定の時代、一定の国で生きており、状況に適った死に方をしたのである。
 神の態度を考える際、神の御旨を推測することが、人間に過ぎない私たちにとって極めて難しいということを忘れてはならない。神が十字架を目論んだことは全く考えられない。神には人類の幸福を目的とする計画はあるが、その中に十字架がプログラムとして予定されていたことは決してない。けれども、父なる神がイエスを十字架から助けなかったのは事実である。いや、助けることが出来なかったと言えるかも知れない。神は人間に自由を与えたので、それを制御することが出来なかった。そう見れば、父なる神の沈黙の中での「神の痛み」を推測することも容易になる。
 あるいは「神は、その独り子を与えるほどに世を愛した」(ヨハネ3・16)という句を味わうべきだろう。愛するとは相手に自分自身を献げることだと定義されている。独り子を与えるのは神の自己譲与を表わす。その賜物であるキリストは、すでに人間の持ち物になっているが故に神に戻り得ない。神の沈黙は人間に対する無尽蔵の愛を物語っている。
 それにしても、独り子を与えるほどの愛とは、何と非常識ではないか。その通りとパウロは思っている。彼は神のやり方が愚かな方法であると断言する(一コリント1・21、25)。この愚かさに太刀打ち出来る者がいようか。