「神の啓示」

G・ネラン


 昔、人は星を眺めて、神の存在を感知した。現在、生命の不思議なメカニズムを解明する学者は、それを創造した超越的な知性そのものがそんざいするという結論を出す。善悪の判断をくだす人間の良心の裏に神の意志が働いているのは当然と思われる。私たちの周囲に絵馬を奉納したり、魔除けをそなえつけたりする人は少なくない。こうした例は超越的な力がこの世に働いていると信じていることを物語っている。だが、その力は神と名づけても、極めて漠然とした存在である。
 ビッグ・バンを起こしたのは誰か、という問いが浮上するずっとずっと以前から、哲学者は世界の存在理由を探求してきた。彼らが、その理由を的確に論じたとしても、それは一つの理念を提供するにすぎない。理念だから、その存在は不確かであるばかりでなく、その姿も形も明らかではない。
 ところが、神の知識への道は理論ではなく、歴史上に起こった事実なのである。キリストの生涯は史実であり、事実である。キリストについて私たちはすべてを知っているわけではないが、その誕生、その活動、その教え、その死は福音書に十分に語られている。キリストが単なる一人の人間として解釈する限りでは、その存在は何も教えてくれない。せいぜい、立派な人物だったというぐらいしか分からない。
 事実はそうではない。キリストは「神の本質の完全な現れ」(ヘブライ人への手紙1・3)である。すなわち、キリストの行動を見れば、神の本当の姿を眺めることができるのである。
 キリストは力を持たない。政治的な力も、経済的な力も。神も、力を放棄して人に何らの行為をしいるのではない。人間に自由を与え、その自由を尊重する。 キリストは金儲けと縁がないばかりでなく、逆に、馬小屋で生まれ、犯罪人として死ぬ。生きて活動していたとき、貧乏人や社会から疎外された人々の友であった。キリストが、身分の低い卑しい人々を優先するのは、神自身の依怙贔屓を反映している。それをキリストは自分で語っている(マタイ11・25)
 キリストの最初の言葉は「さいわいなるかな」である。人間に幸福や喜びを宣べ伝える。それは、人間が何のために生きるかという問いに答えて、真の生き甲斐を教えることである。そのメッセージは神の思し召しである。神は人間の」幸福を望んでいる。
 キリストは罪人を受け入れ、罪を赦す。正確に言えば、キリストは神の赦しを伝える。神はいつも赦す。赦すのは、いわば神の趣味である。
 キリストは人々のために生きる。病人を癒したり、人に希望を教えたりする。私利私欲を捨て去り、人々に幸福を与えようとする。それは愛することである。これを見たヨハネか「神は愛である」と書いた。別な言葉で言えば、神は人類に身を投じる、あるいは、人類に自己を譲り渡すことである。
 キリストは限られた所で、限られた時期に生きた。これは事実の不可欠な条件である。しかし、メッセージは普遍であり、永遠である。神は全人類を愛する。
 キリストは、ユダヤ人やローマ人の権力者に逆らうことなく、裁判の時も黙っていた。神も同じく・・・。その夜神はピラトを死なせなかった。神は人間の悪意と悪業を見て心を痛めるが、人間の自由の領域に侵入しない。エルサレムの破壊を予見して、キリストは泣くが、ローマ帝国の軍隊の侵入を阻止しなかった。神も人間同士の血塗れの闘いを見て嘆くが、それに手を出さない。人間の営みを人間に任せるのである。
 神は自分の似姿として人を創造したと旧約聖書は教える。人々の中で、最も人間らしい人間はキリストである。キリストこそ神の似姿であり、神の本質の現れである。
 その誕生は啓示の始まりである。