佐藤初女

『おむすびの祈り――<いのち>と<癒し>の歳時記』

PHP研究所刊



 「聴く」という姿勢が身に付いている方は、謙虚であるということを身体で知っている、ということに違いない。佐藤初女さんはそんな人だ。

 「食事を作って、話を聴いて、休んでもらっているだけでね。なあんにも、していません」と青森弁で語る彼女。しかし、誰かと対話をしている初女さんは、その方のために自分から何かについて語ろうとするときでさえも、話をし過ぎたと思うと自分でハッと気がつき、急遽話を終え、また相手の話を聴こうとする様子が見てとれる。

 寝るときも、枕元に電話を置いて、苦しむ人々からの電話をいつでも取れるようにしている。自分だったら疲れ果てて壮絶なものになるだろうと思うが、その姿勢からは、静かな謙虚さがにじみでてくるだけだ。日本中、いや、世界での講演旅行から帰ってきても、次の日の朝には訪れた人たちのために自ら台所に立って食事を作っている。しかも、健康的で、彩りのバランスがとれていて、なによりおいしい。

 齢を重ね、すべてを手に入れたと思った人が、最後の最後に人からの尊敬を手にしようとしても、それはできない相談だろう。そもそも、そんな風に思う事自体が徳とはほど遠いが、食に携わる者として、話を聴くはずの立場として、キリスト者として、どれをとっても先輩の姿勢には自然に頭が下がる。そんな大先輩に、「エポペにはずっと来たいと思っていました」「おいしいですよ」と言っていただいたときは、あやうく涙が出そうになった。

 そんな初女さんだが、はっきり言うときは言う人でもある。韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」でも描かれていたが、食と医は表裏一体、初女さんは「食はいのち」だと言い切っている。食べるということは「いのちといのちの移しかえ」なのだとも。

 確かに、いまの日本は食をいとも簡単に捨てる。役所の試算では、日本への輸入量と同量の食材をゴミとして捨てている勘定だそうだ。食を大切にしない者が、いのちを大切にすることなどできないということなのかもしれない。少年犯罪が増加するなか、少年法の改定ばかりが声高に叫ばれるが、今一度、いのちの原点を見つめること、子どもの頃からの日々の食に対する姿勢を見つめ直すことにこそ、意外なヒントが隠されているのかもしれない。

 「森のイスキア」への訪問は今のところ未定です。次回の予定はエポペのスタッフに直接お尋ねください。FXS)