貧困と闘う司教とともに
進藤重光

授業中に貧困国の代表者たちが、世界銀行の担当者とやり合っている。  
「なんとかしてくれませんか」
「そうは言っても融資する期間をはっきりしてもらわないと」
「それなら担保はわが国の資源で」
「まず、借りたものは返してもらわないと」

などなど、緊迫した国際交渉の現場だ。  中には直接国連に緊急援助を求めてくる者もいる。
「国連にもお金はないので先進国にぜひ相談を」
と促され、すごすごと日本やアメリカに向かう代表団。 しかし、うなだれながら自分の国に戻っていくようだ。どうやら金利が高すぎて技術もお金も借りられなかったらしい。他方、新興国同士でスクラムを組んで頑張っている国家群もいる。交易にも忙しいようで、国民は余裕の笑顔を見せている。  

これらはみな、聖ドミニコ学園中学校・高等学校(東京・世田谷区岡本)で静修の時間に毎年繰り広げられるゲームの一コマである。世界貿易ゲームと名付けられたこのゲームには高校三年生の生徒約七十名が熱心に取り組み、世界の矛盾や貧困の厳しさを一時だけでも体験できる仕組みになっている。  熱気がまだ冷めやらぬ中、休憩を挟んで今度はこんな話をする。  

「東南アジアにベトナムという国があります。この国の中でもさらに貧しい少数民族を支えてきた、年をとったひとりの神父さんがいました。子どもたちは栄養不足で泣き声も上げません。子どもたちの両親ですら、すぐに病気になってしまい、六十歳になる前に多くの人が死んでしまいます。」  


現地で撮影してきたビデオを通し、貧困の現状を見てもらう。連日の猛暑のなか冷蔵庫がないため、二週間前に買った魚に何度も火を通し、少しずつ食べる幼い子どもを抱えた家族。井戸が浅いために、濁った水しか手に入れられない人びと。トイレがなく、屋根から雨が漏る掘っ建て小屋。床はもちろん地面だ。  日本では想像すらできない現実を食い入るように見つめる生徒の瞳は真剣そのものだ。大学や高校で教える際に必ず見ることのできる彼らの真摯な姿は、いつも清々しく、どんなにこちらが疲れていても希望が湧いてくる。そして、彼女たちの未来に幸多かれと心から願うときでもある。  しかし、そんな彼女たちの目にも、現実の貧困の厳しさにあきらめてしまいそうな気配が見えはじめる。その頃合いを選んで、私はおもむろに話を続ける。  

「しかし、この神父さんは決してあきらめずに祈り続けました。世界中に手紙を送って助けを求めたのです。すると、最初はきれいな水が汲める深い井戸が贈られました。続いて大きな農業用の池が建設されました。それから、小さな学校ができ、無料診療所や道路が建設され、乳牛や豚がプレゼントされました。そして、今では、漢方薬を作る広大な薬草園までもができるようになったのです。」
 

「神父さんはもう年をとって七十歳近くでしたから、本当はもう引退してもいい年齢です。ところが、この地方全体の責任者に選ばれ、司教になりました。そして今も、農村を実際に回って指導を続けています。」  

「実は、この神父さんを支え続けたのは世界中のNGO(非政府組織)です。その中には日本の私たちのようなNGOもあるのです。では、世界の現状を簡単に概観しておきましょう。」
 
生徒たちの好奇心がもう一度くすぐられ、再び授業が続けられていく。

世界の深刻な現状を前に
 
よく知られているように、世界人口のわずか二割でしかない先進国に属する私たちは、地球の富の八割以上を独占し、残り八割の人びとが二割にも満たない富を分け合っている。  さらに、世界には、一年でおよそ六百万人、五秒に一人の割合で、五歳未満の子どもたちが栄養不良に関連する原因で亡くなっている。これは世界全体の五歳未満児の死亡の半分以上を占めている計算になり、たとえ生き延びることができたとしても、子どもの場合の栄養不良は心身の発達を妨げることになる。必須栄養素(微量だが身体には必要欠くことのできない栄養素)の未摂取のために一生回復できないダメージを受けて、将来に取り返しのつかない影響を及ぼすからだ。特に成長期の子どもの栄養不良は、心身の健全な発育を妨げやすく、貧困地域の人材育成の上で大きな支障をきたしている。この瞬間にも、世界で飢えている子どもの数はおよそ三億人。そのうち一億三千万人はまったく学校に通っていない。  国連が定めたミレニアム開発目標の実現への取り組みのなかで、飢えた人びとの栄養改善を図ることは極めて重要とされている。というのも、栄養不良は世界の子どもの死亡原因の六〇パーセントを占め、毎日三百人の妊婦が鉄分不足で出産中に死亡しているのが現状だからである。  「飢えた人びとは、食べ物以外のことを考える余裕がありません。蔓延する飢餓と貧困が人びとを栄養不良に追い込み、労働力の低下、就学者数の減少、集中力や学習力の悪化を促しています。また、病気に感染しやすく、免疫力がないために長期的な心身の発達に障害を生じ易くなります。このように、空腹は、結果的に一人一人の生活意欲を衰弱化させ、国の経済・社会発展への道の妨げとなっているのです。」(WFP、国連世界食糧計画資料二〇〇五年度版)

貧富の格差、地域格差、教育格差、医療格差……。それにともなって頻発する紛争や難民の発生、環境の悪化、そして、戦争の勃発。なるほど、これらの問題は二十一世紀の今に始まったことではない。しかし、事態は沈静化へ向かっているというよりも、より深刻化していると言わなければならないだろう。さらには、先進国と言われる国の中でさえ、アメリカを襲ったハリケーン「カトリーナ」が如実に示したように、富める者と貧しい者との差は拡大を続けている。  今ではアメリカ国内のスラム街で貧困対策のために行われている戦略は、途上国でのそれと事実上変わらないのである。 思い起こせば、既に二十世紀末には「静かな緊急事態」として国際社会はUNICEF(ユニセフ、国連児童基金)から繰り返し警告を受けていたことを忘れてはならない。  「過去には国際開発努力は、真の緊急性を持たなかった。締め切り時間はなかったし、人道的関心の他には何の至上命令もなかった。失敗の結果は貧しい人々に降りかかるだけだった。だがいまやそのすべてが変化しつつある。」  「いまや締め切り時間がある。開発を達成できないことが、貧しい人々だけでなくすべての人々に影響を与えるからである。従って開発のコンセンサスを実施に移すことは、私たちの文明にとって最低限の道徳条件になっただけでなく、文明存続の最低限の実質的条件ともなっている。」(「世界子供白書」UNICEF、一九九五年)  言うまでもなく、「文明存続の最低限の実質的条件」が否定される事態とは民族間の憎しみや環境の劣悪化を巡って、近くはルワンダの大量虐殺、古くはイースター島で起こった殺戮のように、人間が人間らしく生きていくことができず、生存を懸けて互いに憎しみ合い、身内でさえ殺し合う事態になることに他ならない。  

このような惨劇を回避し、平和と友好を礎とした市民社会を構築することは、今では好むと好まざるとに関わらず、特に先進国に住む人びとに課せられた緊急で重大な責務であると言っても過言ではない。ユニセフは十年以上も前からそう警告し続けているのである。  これらの内容は、高校生には多少難しい内容かもしれないが、できるだけ噛み砕いてしっかり伝えるようにしている。その理由は、他でもない、かれらの未来にこそ深く関係する事柄だからである。

戦渦の中での叙階
 
私がNGOに関連した訪問授業をするきっかけとなったニュエン・トアン・ホアン師は、一九三二年十月十一日ベトナム北部ニエアンで生まれた。司祭の召命を感じて最初は北部の神学校に進むが、ベトナムの南北分断によって南部にある大神学校に移ることになる。  国内の混乱が一層深刻化する一九六五年の四月、つまり、「ベトナム戦争」がいよいよ本格化する北爆開始直後の南ベトナムのヴィンロンで司祭に叙階された。しかも助任司祭として赴いた最初の任地は、その後、もっとも戦闘が激しく行われることになる中部のクウアトリの教会。早くも六六年にはミッション高校の校長に任命され、その翌年には戦争の激化に伴って孤児院を開設、三百人の子どもたちの生活の面倒を見るようになったことも頷ける。司祭生活はこうして最初から多難で重い責任を担うことから始まった。  一九七二年には戦争の激化に伴い、北部から避難してきた人びととともに、現在のビントアン省の貧しい地域に移り、孤児院と高校もその地に移設された。もともと荒れていた土地であり、住むには決して相応しいとはいえないその地での生活は文字通り辛酸を嘗めるような生活だったという。そして、七五年にようやく戦争が終結する。  このとき、米軍とともに逃げることができた多くのプロテスタント教会とは違って、現地のカトリック教会は逃げ出すことはなかった。むしろ、古くから人びとの生活のなかで宗教的な基盤を担ってきた教会が、長い戦禍で苦しむ人びとを後にして出て行くことなどできるはずはなかったのである。こうして、無神論的プロパガンダが盛んに叫ばれる最中でも、ベトナム司教団は譲れない一線を保ちつつ、政府との宥和共存を模索し続ける道を選んでいく。  「戦後はゴミ拾いからはじめました」という当時のベトナムの教会の謙虚な姿勢は、以後、社会福祉方面で活発かつ十全に展開されていき、いまではベトナム社会にとって、なくてはならない存在として高い評価を受けるまでになっていった。  一方、南北統一を果たして自信を深めたベトナム共産党政府は、北べトナムで行われていた社会主義システムを急速に全国に導入するようになる。その結果、南ベトナムに多く住む華僑を中心に猛反発が起こり、大量のインドシナ難民問題(ポートピープル)へと発展していった。そして、一九七七年には厳しい干ばつや水害に見舞われ、翌七八年のカンボジア進攻や中越戦争などで国内の締め付けは一層厳しくなる。ホアン師の孤児院や高校も地方政府の手に引き渡された。かくして社会主義政権下における微妙で難しい教区司祭としての日々が続く。  この間にも、ベトナム経済は高いインフレ率と巨額な財政赤字によって債務が膨れ上がり、歳入の約三割を依存していた旧ソ連、東欧諸国からの援助の急減に加え、国営企業の行き詰まりなど、国家財政は次第に危機的状況に陥っていった。そこで政府はこの苦境を打開すべく、新経済政策を導入したが、八五年には財政赤字は対GDP比の一二パーセントにものぼり、さらに紙幣の増刷を行ったことが再び高いインフレを引き起こす原因になるという、惨憺たる結果に終わった。  これにより、ついにベトナム共産党は、八六年十二月の第六回党大会で経済の安定を図るため、市場経済の導入と対外全面開放政策、いわゆるドイモイ(刷新)を柱とした政策の導入に踏み切るのである。

ドイモイ(刷新)政策とともに
 
この政策では、歳出の三割を占めていた国家補助金の廃止、国営企業の独立採算制の導入、農業の個人経営の許可、市場価格制の導入、個人所有権の認可、不動産市場の自由化などが主な国内の経済改革として採用されている。  他方、対外的な全面開放政策では、貿易の自由化、外国投資法の制定、西側からの資本や技術導入の許可などが盛り込まれており、社会主義と相反するさまざまな問題があったにせよ、今までの党是、国是からは考えられないような政策の大転換となった。しかもその成果は如実に、そして急速に現れた。九十年に入ってからはインフレが収まって為替のレートも安定するようになり、現在知られているようなベトナムのドイモイ経済として広く知られるようになったのである。  

そして、これら改革解放路線の進展と成功は、ベトナムの教会にとっても、徐々にではあるが明るい兆しとなって現れてくる。 八九年にはホアン師が住むこの地域の門戸開放政策により、北部から避難していた人びとの定住化が行われた。九三年には二百ヘクタールの土地を活用して造り上げた農業用のダムも竣工した。  実は、もともとカトリック教会の主導で農業用に予定されていた土地ではあったが、革命政権の樹立によって、南ベトナム政権下で許可されていた計画は頓挫を余儀なくされ、そのための資金はスイス銀行に預けられ、凍結されていたのである。 しかし、ホアン師はあきらめずに国際司法裁判所に申し立てをし、見事取り返した。こうして、この資金に加え、バチカンからの支援とヨーロッパのNGOの支援を取り付けることにも成功し、紆余曲折を経てダムの建設にようやく取りかかったのであった。  

日本ではとかく評判の悪いダム建設ではあるが、現地にとってのそれは値千金と言えた。雨季と乾季の差が激しく、乾季にも水を手に入れることができるようになることは、その地域に劇的な効果をもたらすのである。今なおこのダムを中心に灌漑が行われ、作物が植えられ、肉牛が放牧されて順調に増産を続けていることからも、それがどれほど重要な事業であったかが分かる。かくして二百世帯、千五百人に及ぶ人びとが、通年安定した水の供給を受けられるようになったのである。  九二年には、右肩上がりのベトナム経済を象徴するように新憲法(ドイモイ憲法)が制定されている。その条文には市場経済化、対外開放が明文化され、ドイモイが国是であることが明記された。このような順調な経済成長と国際環境の好転を背景にしながら、政府の方針は、初期の軽工業中心の経済発展から、高い付加価値を加えた輸出入産業やエネルギー産業、ハイテク産業や農業の近代化に移っていった。  現地で面会した地方政府のある幹部が「わが国は現在世界でも有数の米の輸出国だが、できるだけ早く日本のような重工業を興し、米作りから脱却して、一流の技術立国になることが重要だ」と話してくれたことが印象深く残っている。私たちが訪れた一九九五年は、そのようなムードのなか、ASEAN(東南アジア諸国連合)への正式加盟によってさらに活気づいていた頃でもあった。東京で発売されたばかりの新製品でも、翌日にはホー・チ・ミン市で販売されているというほど、新規の建設や開店ラッシュで街は沸き立っていた。

急激な経済発展の陰に
 
このような経済政策への特化は、より豊かな生活を望める半面、必然的に多くの敗者を生み出すことにもつながる。私たちがベトナムを訪れた時を同じくして、政府の定住化政策により、山岳地域に住んでいた少数民族のラグライ族の家族六十世帯が森から降り、この地域のタンハー村に落ち着いた。  彼らの多くは古来からの言い伝えを信じ、中にはハンセン病の患者も含まれていたが、治療のための施設どころか、満足な井戸やトイレもなかった。土地は痩せ、子どもたちは首の据わりが悪く、大きな泣き声すら上げられないほど衰弱していた。もともと北部からの避難民が定住した貧しい土地柄であり、そのなかでもさらに貧しい地区にしか定住先は残されていなかったことも災いした。本来、山でなら不十分ながらも行うことのできた山菜採りや狩猟も叶わず、定住や安定という言葉の響きとは裏腹に、現実には非常に厳しい生活だけが待っていたのである。  私たちのNGOヒューメイン・インターナショナル・ネットワーク(HINT)のメンバーは、奇しくもこの時期にこの村を訪れたわけだが、ドイモイで国中が沸いている大都会ホー・チ・ミン市との落差が激しかっただけでなく、このような深刻な事態がその大都市から百三十キロ程度しか離れていない、こんな身近なところに存在していたということが、まずショックだった。コーディネーターをしていたルワンダの難民キャンプから帰ってきたばかりの私にしても、困窮する世界の現状を身を持って経験してきたはずだったが、この事実を見せつけられることによって改めて愕然とさせられた。繁栄の影でひと知れず隠されている貧困というものが持つ問題の根深さがそこにはあった。  こうして、ほぼ同時期にNGOを立ち上げていたジャパ・ベトナムの安藤勇師(イエズス会社会司牧センター)から紹介され、崩れかかかったような教会に長年住みながらこの地域の人びとを助け続けてきたホアン師に初めて出会うことになる。見るからに農民の姿をした笑顔の老人は丁寧な英語でこう語りかけてきた。  「福音を彼らにも伝えたいのです。ベトナム戦争で何もかも失った彼らに、決してあきらめてはいけないと語り続けてきましたが、ここの人びとには井戸も、学校も、食糧も、技術も、仕事も、何もかもが必要なのです。いまでは、山から来たばかりの少数民族もいます。手伝ってもらえませんか。」  

確かに、ベトナムのカトリック信者は一〇パーセントを数え、特に南部地域では、田舎に向かう道のそこかしこに教会の尖塔が見える。しかし、共産党政権の厳しさのなかで、いま間違いなく、それでも「福音宣教」を語る司祭に出会ったのである。  私の頭の中で、かつて中国でお会いした老司祭の姿が浮かぶ。文革の最中、強制労働と水牢の中で合計二十年近くも閉じ込められながら、なおもイエス・キリストの福音を伝え続け、捕らえられていた人びとに洗礼を授けていたという司祭の静かな笑顔だ。決してあきらめず、主を信じて淡々と職務を遂行してきたに違いない農民司祭の姿は、間違いなくそのときの司祭と同じものだった。  この瞬間から、離れてはいても忘れがたい、ベトナムとの深い結びつきが始まったのである。

NGO活動の現実
 
HINTは、一九九四年のルワンダ大量虐殺に端を発する大規模な難民の発生を機に生まれた。当初、カリタス・ジャパンのクリニック運営に協力していた活動は、ザイール(現コンゴ民主共和国)東部の子どもたちの状況が難民よりも悲惨であることから始めた教育支援事業に移っていった。その中心は、学校に通えない貧しい子どもたちへの奨学金の提供だったが、ひとくちに奨学金を出すとは言っても、実は多難な道のりだった。  一般道路は、地方政府にメンテナンスの財源がないため、爆撃を受けた大きなクレーターのように陥没している。これを避けるために車は十数キロ以下で走らなくてはならず、だからといって山道を通れば、ランドクルーザーでさえスタックをしてしまうような未舗装の道しかない。  そのような環境で学校に通うことが容易ではないことは想像に難くない。そこで寮生活が必要になってくるわけだが、貧しい学生には学費だけでなく食事の分も含め寮生活の一切がコストとなって発生してくる。そしてもし、本当に貧しい子どもたちを通学させたいのなら、これに加えて、文房具から制服の費用までを考慮にいれなければならないのである。私たちが、日本で考える貧困とは比べものにならない絶対的な貧困がそこにはあり、事実の前に呆然とすることから支援は始まっていった。  しかし、この奨学金で学んだ学生たちはいまでは立派に成長を遂げている。教師、医師、公務員、会社員として、今度は新たな人材を育て始めていることが喜ばしい。紛争が絶えず、経済的にも深刻で、失業率が高い状況下、ほぼ全員が職を得ていることは奇跡的ともいえる成果だろう。  だからその上さらに、ベトナムの少数民族を支援することができるのか、本会の内部では幾度となく議論が交わされている。皮肉なことに、皆が純粋な気持ちでNGOに関われば関わるほど、お金のありがたみをしみじみと感じるようになることも肌で学んだ。  それでも、私たちは今でもベトナムの支援を続けている。あの日の出会いを忘れたくないからだ。いや、どうしても忘れられないからに違いない。  またこの体験は、このNGO活動が生まれるきっかけになった新宿歌舞伎町の宣教スナック「エポペ」での活動に、確かに役立っている。豊かな日本に住むサラリーマンやOL、学生たちに福音を伝えるとき、目に見えない相手であっても信じて支え合えることを、実感を込めて話せることに繋がっているのである。そして、ともすると彼らが感じているように、確かに人は孤独で不安定な苦しい日々を歩んでいくものなのかもしれないが、たとえそのように感じるときでも、苦しみを分かち合い、祈り合う友や仲間はいるのだと、語りかけている。  こうしてNGO活動を通して学んだことは計り知れないが、慢性的な資金不足に変わりはない。  ここに、本年四月五日付けでビンタン教区の正式な司教として着座したホアン師のもとで育ったベトナム人、シスターリンの志がある。三年後には終生誓願を迎える彼女はすでに看護師の資格を得ているが、できれば医師の免許をとって、この地域の貧しい農民と少数民族のために生涯を捧げ、さらに後進のシスターを育てたいと心から願っている。しかし、本会では現状を維持するだけでも精一杯である。そこでどうか、百円でも千円でも結構である。どなたか、そんな彼女のために学費を出していただける方はおられないだろうか。

しんどう・しげみつ/特定非営利活動法人ヒューメイン・インターナショナル・ネットワーク代表
(初出:月刊『福音宣教』2005年12月号 オリエンス宗教研究所刊)